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ショパン「夜想曲第1番op.9-1」の理解と表現の基本的視点

 ショパンの夜想曲はフィールドの同名曲から感化され、小曲の中に描く幻想としてワルツやマズルカなどと同様に一連のピアノ曲として生涯に渡って書かれました。その最初に位置する作品9の第1番は、続く余りにも親しまれている第2番と、その蔭にあっても内容のある第3番と共に初期においてもその特徴が見出せると言えましょう。

 まずこの第1番が変ロ短調であることは、大半が黒鍵を奏しそのほの暗い響きが何より夜想曲に相応しいと言えます。その響きを現実以上に意識して、それをより引き出すタッチが求められます。そして6/4拍子の弱起での開始に、この曲想の端的な姿が見出せます。そして何よりLarghettoの速度標語に注目すべきでしょう。Largoの広大さが抑制された適度な速度として、さらに6/4での八分音符を主とする記譜からもよりきめ細やかな表現が求められると考えて良いのです。

 その意味で冒頭の弱起からの動機に、この曲の理解と表現の基本が読み取れます。重要なポイントは、まずC音→Des音、A音→B音そしてGes音→F音の半音進行x要素であり、その後のF音の三音連打y要素です。その正に起承転結の原理に基づく二回の半音上行からの半音下行で上下の対比での揺り動きから、それを収める三音連打として前後の三対三の比率で均衡しているのです。しかも弱起で八分音符での裏から表へのリズムと、強起で四分音符の表の連続のリズムでも対比されています。

 こうした細かな細部表現と対比を描き、弱起で浮き上がり次の一拍目で落とされるような運動性をもって表現されれば、それは自ずから次の動機へと導いて行くでしょう。細かに表現しようとするあまりに弱起部分自体に比重がかかっては、運動性が逆転してしまいます。

 続く動機は冒頭に対して音域と穏やかな音階的進行とリズムで対比されますが、F音→Ges音→F音、C音→Des音の半音進行xで共通し、統一性も見出せます。それに冒頭のB音→Ges音の3度跳躍進行がEs音→C音、Des音→B音の進行に反映されているのです(その他のフレーズアクセントや和声の要素などは譜例を参照)。

                             『譜例』

 

 これらに続く繰り返しでは、ショパン独特な装飾的変奏のよって要素が展開され、それに続く旋律展開では、y要素から今度は弱起で始まります。

 もう一つ見逃してはならないのは、冒頭の全音階進行z要素でしょう。これが中間部で変ニ長調を基盤とする全音階と半音階の対比する旋律の要素となることを注目しましょう。そのニ長調への半音転調も、x要素の拡張的展開として見逃せません。また主旋律のきめ細かさに対して付点二分音符から始まるリズムも大らかとなり、その違いによって双方が引立っているのです。

 このように前後の表現の有機的な関係性と対比・展開を理解していけば、それがその場その場での表現を自らの内面から引き出してくれるでしょう。そうした意味では、ショパンはサロンでの即興演奏を好み、それがそのまま作品として定着できればと望んでいたようでもあることが正にそれを示していて象徴的です。

武満 徹「ピアノ・ディスタンス」の理解と表現の基本的視点

 1961年に、友人で作曲家・ピアニストの高橋悠治の初リサイタルの為に書かれた初期のピアノ作品です。その表現や記譜法は現代作品に見られるものが集約している面もあり、比較的良く演奏される日本人作品ということもあってここで取り上げたいと思います。

 まず小節線の区切りは基本として3秒間との指定があり、各楽句はフェルマータやブレスなどで持続を内在しつつ分断され、それぞれに発想標語、強弱、諸記号、それに若干の緩急の指定が緻密に書き込まれています。ペダルの制御と特定音の鍵盤保持による倍音などの残響が、表現の実質となっていることは決して見逃してはならないでしょう。つまり打鍵そのものより、その結果に生ずる響きを目指すという意識です。また強弱変化や重音か単音かで、前後に対比を超えた飛躍、分断、否定という切り替えが重要です。言わば空間にまったく異なる位置と質量で点在する響きによって、その世界全体を表わされているということです。響きが放たれる後にこそ、空間が表出されると言えます。

 装飾音としての記譜、目安としての音価と位置、分離する連衡、クラスターなど現代に共有する記譜法もあります。つまり伝統的な読譜の概念から少し離れ、前後の流れと視覚から得る感覚を求めているとも言えます。その感覚は決して打鍵した瞬間ではなく、常にその前にあるということです。打鍵し発せられる響きは、すべて総合的な想念の結果でなければならないということです。

 その意味でも、開始冒頭の15秒前後によってその表現世界を暗示させる必要があります。その為に緻密な楽譜への記載に細心の注意を払い、その意味するものを深く考え自らのものとして取り組むのです。それはそれぞれの解釈があるでしょうが、その出発点は記譜に込められているのです。楽譜は見るものではなく、考えながら読み取るものである原点をより一層認識する必要があるということです。

 いずれにせよ、演奏表現とは伝統であろうと現代であろうともその場のあらゆる要素で一期一会に生まれるものであって、求めるべき表現とは単なる練習の積み重ねではなく、楽譜の精読と考察による理解と、それに裏付けられた即興的な創造性の積み重ねによってこそ得られるということです。

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