音楽とは、実はわからいことだらけではないでしょうか。例えば、拍とは何か、リズムとは何か、一言で答えられますか?
理解と表現のために
音楽表現の基本には、「音」と「時間」があることは言う迄もありません。「音」には“旋律”と“和声”があり、「時間」には“テンポ”と“拍・拍子”と“リズム”があります。これらをすべて結びつける根幹に、“呼吸”に例えることのできる運動性があるのです。しかしこの“呼吸”は、歌うときの実際の呼吸とは異なります。つまりその吸って吐くという、一連の対なる運動性で誰でも内なるものとして理解できることなのです。音楽は、進んで行きます。進んで行く為には、力が必要です。表現とは表に現すのですから、当然押し出す力があってこそそれを為し得ます。その力で、音楽は推進していくのです。その力は決して肉体的、物理的な力ではありません。精神的な力です。その心の力が発生する為には、息を吸って溜めるように、まず心に力を蓄えなければなりません。そして息を吐き切る様に、力を発生させればそれは次第に弱まって消滅します。しかしそこからまた息を吸う様に、発生し消滅する連鎖の運動性でこそ音楽は進んで行くのです。そしてそれは“旋律”と“和声”、“テンポ”と“拍・拍子”と“リズム”のすべてに、あらゆる単位に内在しているのです。それを基本にすることこそ、音楽の理解と表現の根本なのです。
例えば“旋律”における一つのまとまりをフレーズと呼びますが、それは吸って吐く切り替えの様にフレーズアクセントが必ずあり、そこへ向かって収まるまとまりなのです。“和声”もトニックからドミナントへ向かい、トニックに収まることは一呼吸に例えられますし、“拍”という単位で形成される“拍子”は同じく一つの呼吸としてあらゆる“テンポ”が生まれるのです。リズムも、必ず動きの重心となる力点があります。ちょうど、ものを投げるときのリリースポイントのような力点です。
歌詞のある歌曲と異なり器楽音楽は音のみで表現されており、その抽象的な世界をどのように理解し表現するかに対して、意外にもそうした基本が見過ごされていると思うのです。
今演奏している曲を、今聴いている曲を、そうした呼吸を感じて対峙して下さい。特にピアノを弾くときは、どうしても力が入ったままで抜けることが希薄になりがちです。しかし呼吸に様に、吐き切らなければ息を充分に吸うことができません。つまり力が抜けていなければ、力が充分に入らないのです。この息を吐く、力を抜くということに実は音楽表現の重要なポイントなのです。しかしどうしても表現しようとするあまりに力を入れるということに意識が傾き、抜くことがおろそかになり表面的で浅い表現になってしまいます。息が浅いと充分に力が発揮できず、心理的にも技術的にもすべて余裕を失いに悪循環に陥ります。
音楽を表現するということは、日常を超える行為です。それが日常的な呼吸以下の浅さでは、超えるどころか普段より余裕を失った状態で立ち向かうことになるのです。例えば人々の前で演奏する時、誰でも緊張のあまりに呼吸が浅くなります。したがって、より深い呼吸で集中して自らの奥底から力を発揮させて立ち向かうことを、より一層求めなくてはなりません。
それは難しくできないのではなく、誰でも意識せずに呼吸しているように、より意識さえすれば必ず出来る方向に向かうはずです。音楽を理解したい、音楽を表現したいという気持ちがそれを押してくれるでしょう。
現代音楽の理解と表現のために
大戦後以降の音楽芸術創造は、伝統を革新していくためその否定が根底にあると言えるのです。19世紀迄の伝統とその成熟によって、なお一層根底から革新せねばならない宿命を背負っているからです。そこにまず調性という基盤の離脱があり、20世紀初頭より多様な創造的実践が行われ、象徴的に「無調」という様式で呼ばれました。しかしこれは「非調性」と言う方もできます。音程がある限り本質的に相対的な音の関係性は「無」とはならないからです。その意味では、恣意的な音組織を創案しなければならなかった十二音技法が逆説的にそれを表しています。
いずれにせよ創作表現では、否定というキーワードが一つの共通項と言えます。音楽の進行が、前後に覆すことが表現手法になっていくということです。それには飛躍や断絶などで、音の関係性をより抽象化されていくのです。その結果、極限的対比、微細な変化、機械的な反復、クラスター等が常套手段となり、ポリフォニーも対立による調和ではなく否定の為の対立となり、協和ではなく不協和こそが主眼となるのです。
その演奏表現でも、これらを踏まえ個々の瞬間を凝縮させて連続性を打ち消し、大胆な表現の切り替えこそ重要となります。それが革新を希求し共通して得た、一つの結果だと言えます。それは現代というものを象徴する音楽芸術創造であり、歴史的に追い詰められた必然でもあります。しかし日常的な世俗音楽が調性の中にあって現世的な概念との乖離は大きく、まったく異なる基盤と様式であることを踏まえなければなりません。言わば微小な的を射抜くような取り組みでこそ、今日に人々にわずかでも受け入れられ共有されているものに突き当たると言えるのです。
したがって演奏表現でも、すべての点で伝統的な概念を捨て去り、そうした基本的理解による革新的な取り組みが求められるのです。