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古楽のすすめ

 1960年代からのステレオレコードの普及で、多くのクラシック録音が発売され、私は少なくともそれと共に育って来たと言えます。それがやがてメディアとテクノロジーの日進月歩で、CDのデシタル化以降、今やインターネット配信の時代に至っていることは言うまでもありません。

 こうした推移に反比例するかのように時代を遡り、丁度ステレオの普及と同時に17世紀バロック時代の音楽を“古楽”という当時の楽器と様式で表現することが、次第に確立していったのです。つまりそれまでは、バロック音楽が19世紀以降の楽器と様式で演奏されていたのです。

 古楽は、今までのバロック音楽への概念を変えさせ、それを聴く者へ新鮮な体験を与えました。そしてその結果、今や18世紀以降の演奏表現へも多くの影響を与えていると言えます。例えば18世紀のモーツァルトやベートーヴェンの交響曲では、大編成オーケストラで演奏されていたのが通常でしたが、当時の小編成な弦楽合奏や管楽器も古楽で演奏される傾向が多くなったのが一つの例でしょう。それで大編成では埋もれていた表現が、より明瞭に浮き出て新鮮な発見をすることも少なくありません。

 こうした意味で、アーノンクールという音楽家の存在は象徴的です。彼は本来ウィーンのチェロ奏者でしたが、古楽を指向して当初ヴィヴァルディの「四季」の指揮で衝撃的とも言える解釈を行い、物議を醸しました。それでも当時はまだ、言わば異端者扱いをされていたと思います。その後、他にも古楽奏者が次々と表れて、バロック音楽の斬新な演奏で音楽界に注目されるようになったと言えます。

 そして当のアーノンクールは、何とベルリン、ウィーン、コンセルトヘボーのヨーロッパ三大オーケストラを指揮し、ザルツブルグ音楽祭でのモーツァルトのオペラの演奏解釈と独自の演出などで、常に目が離せない存在となったのです。

 彼は、「芸術とは衝撃を与え、人を揺り動かすものでなくてはならない。」と語っているように、ただならぬ気迫で指揮して常に既成概念を覆すような表現を放っていました。

 

 このように古楽は、単に過去の時代考証をしたり再現したりするのではなく、クラシックという古典が生まれて来た歴史的背景を顧みて、そこからわずかでも芸術表現の源泉を導き、深めようとする行為とも言えます。しかし過去は既に消え去り、追求すればすべてが明らかになるなどという単純なものではありません。それでも、できるだけ当時に使用されていた楽器や知り得る周囲の状況から、失われたものを掘り出せることが多少なりともあるのです。

 例えば、楽器そのものの特質はそれを自ずと導き、そのために創作された曲の表現の中に、当時の姿が潜在している面があると言えます。

 それに意識を向けるか否かでは、自ずと演奏表現が変わらないはずがありません。

 例えば、アーノンクールの古楽演奏ヴィヴァルディ「四季」では、「春」の緩徐楽章の犬の吠え声の描写と言えるヴィオラ・パートの一節が、粗野とも言えるアクセントで表現されます。現在の通常の楽器と異なり、当時はガット弦で弓も短く張力も違い、現在の洗練された響きと異なるのです。そうした当時の楽器で烈しく奏することでの粗野さは、17世紀の生活や環境の時代背景だけでなく、人々の心境までを映し出すような衝撃ともなるのです。その衝撃は、現代生活と豊かな環境の中で忘れ去られていた感覚を呼び起こしてくれるようでさえあります。

 つまり古楽は演奏家を目覚めさせ、表現をより深めさせ、聴く者の感覚を呼び起こすと考えても間違いではありません

 

 古典とは、人々がその価値を引継ぐべき伝統に他なりません。

 ある音楽家が、「芸術家は人々の心の奥底に眠っている大切なことを、覚醒させる使命がある。」と言っています。

 古楽が次第に見直され、分野として確立し、影響を与え続けているのは、その掘り下げられた表現によって引継がねばならない価値というものを、覚醒させられる人々が少なからずいると言えるのではないでしょうか。

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